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新渡戸稲造について学んだこと

今日のJapanClubのレクチャーで学んだことをUpdateします。

新渡戸稲造が生まれ育った時代は、ちょうど映画「ラストサムライ」の舞台になった頃。映画の主役を演じたトム・クルーズは役作りのために新渡戸稲造の本「BUSHIDO」を読み、この時代の日本文化について勉強したという。面白いことに、新渡戸の書いた「武士道」は、もともと彼が英語で書いた「BUSHIDO」が最初にあり、後から日本語訳が出版されたそうだ。

これには、新渡戸の育った環境が大いに関連している。彼が盛岡県に生まれたのは1862年。江戸時代まで続いた武士中心の文化から、日本が西洋文明に開花するこの頃、武士・貴族(エリートクラス)の子供たちの中には、日本で初めて設立された外国語学校(アメリカやヨーロッパから雇われた外国人の先生が英語だけでなく全ての授業を行う学校)で勉強する者もいた。新渡戸はその中の一人だった。彼は英語教育を受け続けるため、札幌農学校(北海道大学の前身)の「Be Ambitious!」の言葉で有名なクラーク博士の元で学び、博士のキリスト教思想から大きな影響を受けた。

農学校を卒業後は、アメリカのJohns Hopkins Universityで学ぶが、当然のように差別を受けた新渡戸は、彼を温かく受け入れてくれたクエーカー教に深くかかわるようになる。平和第一主義で、人間は皆、無限の可能性を持って生まれてきたという教えは、彼のその後の人生に大きな影響を与える。彼はアメリカの大学を終えた後は、ドイツにも留学している。その後、クエーカー教徒のアメリカ人女性と結婚。

日本に帰国後は、札幌農学校、東京大学、京都大学等の教壇に立ち、日本の将来を担うエリートクラスの若者たちを教えた。また、東京女子大、女子経済専門学校などの設立にもかかわり、明治以降の女性教育にも大いに貢献した。

新渡戸の言葉「われ、太平洋のかけ橋とならん」は有名であるが、彼は生涯を通じてこの志を貫いた。1900年、彼が38歳の時に「BUSHIDO: Soul of Japan」を発表する。この本は、外国人が当時謎に満ちた日本を知るのに、大いに役に活用された。また、1920年に国連事務局次長に就任してからは、フィンランド近くのオーランド島領土紛争の平和的解決に寄与し、今のユネスコにあたる機関の代表も勤めた。

1933年、彼が71歳の時、「太平洋会議」に出席するためカナダのバンフを訪れていたが、体調不良のためビクトリア市内のオークベイホテルに滞在し、病状が悪化してJubilee Hospitalに運ばれ、そのまま病室で亡くなったそうだ。今でもその病室の外壁には新渡戸の滞在を記した表札があると聞いた。

なお、バンクーバー、ビクトリアは当時アメリカに行く日本人の経由地になっており、新渡戸は何度もバンクーバーに来たことがあったそうだ。UBCの教授たちとも交流があり、ゲストスピーカーとしてUBCで講演をしたこともあったという。そんないきさつで、新渡戸が亡くなったすぐ後、親しかった教授によってUBC内に記念碑が建てられた。戦時中は記念碑はどこかに葬り去られていたようだが、戦後、記念碑が修復されたのと同時に、Nitobe庭園が造られたそうだ。

参考までに、ペリーが浦賀に来航したのが1853年、アメリカ初代総領事ハリスが来日したのが1857年で、日本国内では1860年に桜田門外の変が起こり、これを機に江戸幕府が衰退していく。新撰組が誕生するのは新渡戸が生まれた翌年1863年、そして江戸幕府が倒れ、明治元年となるのが1868年である。(参考:幕末年表

5000円札の顔になっていた新渡戸稲造は、侍文化から西洋文化に日本が転換する頃に、留学し、国際結婚し、海外に日本を紹介する本を英語で書き、国連事務次長を務めて、彼自身が太平洋のかけ橋となった、偉大な人だったんですね。今日のレクチャーは、とても勉強になりました!Sさん、どうもありがとうございました!!

新渡戸稲造の全体像を掴むには、こちらもご参考に
by miffyinvic | 2005-03-12 17:46 | カルチャー

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by miffyinvic